相場は意外な展開になりました。
その相場の分析は、明日以降にして、今日は息抜きに映画にまつわる話を1つしたいと思います。
アルフレッド・ヒッチコックの映画に「私は告白する」という映画があります。
実は私の好きな映画の1つです。
この映画は、海外ではヒッチコックの映画としては、意外と人気の高い映画です。
意外と申し上げたのは、実は日本ではヒッチコック映画としては、ワーストの中に数えられる評価がされているからです。
それは「告白」という秘蹟に関する誤解や無理解から来ているのだと思います。
この「告白」という公教会の秘蹟は、映画のみならず政治や文学と様々な分野で、テーマになった事があります。
公教会には、7つの秘蹟があります。
その中の1つが告白で正式名称は「悔悛の秘蹟」といい、一般的には「告解(こっかい)」と呼ばれたりします。
これは、よく日本では懺悔と訳されたり呼ばれたりしますが、懺悔とは仏教用語なので、本来意味合いも違いがあり、正しくはありません。
告解とは簡単に申し上げますと、信者が司祭(神父)に、自ら犯した罪を全て告白して罪を赦してもらうことをいいます。
この秘蹟は、聖ヨハネの聖福音書の20章22節にある通り、イエズスが復活された晩に弟子達に現れ、息を吹きかけて「
聖霊を受けよ、汝らが罪を赦す者には、その罪が赦され、汝らが罪を留める者には、その罪が留められるであろう」と言われて秘蹟を制定されたのが、始まりです。
これはキリストが司祭職を定め、司祭の口を借りて人間の罪をお赦しになろうと思われたからに他なりません。
本来人間とは、原罪の結果と自由意思によって、常に過ちを犯す危険にあります。
罪の汚れのままでは、天の国に入れないので、罪の赦しは当然必要となります。
しかも罪を赦すことが、出来るのは創造主である天主だけです。
あくまでも司祭は天主の代わりに、罪を赦すのであって司祭個人が、赦すのではありません。
子供の母親が、我が子の悪いいたずらを、よく知っているときに「言わなくてもいいですよ、お母さんはよく分かっていますからね」と言うでしょうか。
賢い母親であるならば、子供が自分の罪を告白しない間は、不幸な状態にあることをよく知っています。
ですから「話しなさい」と言って子供に白状させるのです。
天主も全知ですから私たちの犯した罪は、隅から隅まで十分に知っておいでです。
しかも私たちがそれを告白することによって、罪に対する痛悔の心が強められ、真実と正直が養われ、心が平和になることも知っておられます。
ですからキリストは告解を、すすめられるのです。
ここでは、何が大罪で何が小罪かは割愛させて頂きますが(公教会ではどの行いが罪なのか、はっきり定めています)、告解を有益有効足らしめるには、完全な痛悔をしなければなりません。
つまり痛悔(罪を悔い、罪を嫌い後悔する事も)してもいないのに、ただ告白しても罪は赦されません。
やはり完全な痛悔が必要になります。
不完全な痛悔とは、天主の罰、地獄の罰を怖れるという、恐怖による痛悔をいいます。
完全な痛悔を例えるならば、自分が罪を犯した事によって愛する人を傷つけた事を知る事です。
それによって痛悔することです。
こういう事は日常でありませんか。
例えば小さい子が悪い事をしたら親は悲しむものです。
たとえその行いが、親に対して直接関係の無い行為でも、悪い事をしたという事実が、親を悲しませる事は、私達は知っています。
それと同じで親よりも、あわれみ深い天主です。
罪を犯すことによって、私達を愛する天主を傷つけることになるのです。
そしてその愛する天主が傷ついているという事は、なんという悲劇でしょうか。
これが完全な痛悔なのです。
告解とは、どんな場合でも、究明すること、そして恐怖心、羞恥心を克服して告白場に行くことになるわけですから、告白することそれ自体が犠牲であり、修業、苦行になります。
まさに信仰心の業になります。
世間には、何だか淋しいからと言って、さまざまな遊び事にふけって楽しみ、それで気を紛らそうとする人がたくさんありますが、そんな時、淋しさはかえって強くなるものです。人間は心のなかに罪があれば、決して心から喜び楽しむ事ができません。賑やかに空騒ぎをしてみても、真の平和と喜びは得られないものです。しかしよい告解をした場合は、心の不安の原因は除かれます。公教会信者はよい告解をしたとき、天主が実際に私達の近くに居られることを感じ、信仰のまことを体験するのであります。そして罪に対する抵抗力を強め、信仰生活に生命を満ちたものします。
司祭は告解の時に聞いた罪は、どんな些細な事柄でも、絶対に漏らすことは出来ません。
例え殺されても口外することはできないのです。
それは、告解とは信者が司祭を通して天主に告白しているという前提で、司祭は罪を聴いて、罪を赦しているからなのです。
中世のチェコスロバキアの話になります。
首都プラーグにネッポムクという神父がいました。
この司祭は王城の聖堂の司祭でした。
ある時、ネッポムク神父に女王が告解すると、そのすぐ後に神父は王に呼ばれ、女王の告解の内容を話すように命令されました。
もちろん神父は断りましたが、王は非常に怒りました。
国王の命令に従わないという、反逆罪で牢に入れられしつこく聞きましたが、神父は沈黙を守りました。
そして恐るべき酷い拷問を加えました。
それはそれは想像に絶する拷問でしたが、それでも神父は沈黙を守りました。
とうとう最後は、ドナウ河の大橋から神父を突き落として、殺してしまったのです。
後にネッポムク神父は聖人となり、教会の大きな尊敬を受けています。
司祭はみな、告解の秘密を漏らすより殺された方がいいという覚悟を持っています。
司祭が告解の秘密を破り告解者の罪をもらすとしたら、それは司祭の霊的自殺といえます。
今から約150年前フランスでの話です。
ある教会の主任司祭が、いろいろな事情から、殺人の容疑をかけられ牢に入れられました。
司祭は自分が無罪であると主張しましたが、司教までもが信じられないような事情でした。
しかし真犯人は別にあり、その犯人は、被害者の金欲しさの為、殺しこの司祭に告解しました。
司祭は警察に自首することを進めましたが、犯人はそれも恐ろしいので、そのまま逃げてしまっていました。
あいにくその時この司祭は、ほかの事で誤解を受け、とうとう犯人と見なされてしまいました。
真犯人が誰かは分かっていましたが、告解の秘蹟ですから、もらすことも、警察にちょっとした暗示を与えることさえ出来ません。
この司祭はただ「私は無実です」と主張するばかりで、そのほかの事については一切無言でした。
こうして20年間も罪が無いのに牢獄生活を送ったのでした。
ところが、この真犯人は、臨終の時になって初めて、自分のしてきた事を全部白状しました。
これで司祭の無罪が明らかになり、やっと再び教会に戻ることが出来たのでした。
実はこの話は、ヒッチコックの「私は告白する」という映画の内容に酷似した話となっています。
この映画は1952年の映画で、モンゴメリー・クリフトというハンサムな役者が、演じており、一般の神父の立ち振舞いをかなり研究したとか。
カナダのケベックで撮影され、荘厳な聖堂が数多く出てきます。
告解の秘蹟を理解した後に、この映画を見れば、日本で評判悪いこの映画を真に理解出来て、面白さも増すことでしょう。
是非お近くのレンタルショップや図書館などでご覧になられたらと思います。
最近はお近くに無い場合は、私も時々利用しているのですが、ネットでのDVDソフトの貸し出しもあります。
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という業者のネット貸し出しでレンタルする方法もあります。
これからは、映画の話もたまにはしていきたいなと思いますので、よろしくお願いします。
お返事は出来ませんが私に対する個人的なメッセージはメールにお願い致します。
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